「越後長岡と東三河」(東海日日新聞連載)のうち、第072話、
大恩寺武田氏高札
写真は左から
大恩寺山門(宝飯郡御津町広石)
大恩寺武田氏高札(大恩寺文書)
武田氏高札(新城市のホームページから)
 先稿「嘉竹塚の由来」において、嘉竹居堂(嘉竹塚跡地、豊川市下長山町中屋敷)に掲げてある「嘉竹居堂由来記」に、「岩瀬嘉竹齊は、武田信玄公の四天王(たる)山県三郎兵衛昌景(の)娘を妻に娶(めと)り」とあるのに驚き、岩瀬嘉竹と山県昌景との間に、どんな接点があったのでしょうか、との疑問を呈しておきました。
 当時、甲斐の武田は、今川とも、徳川とも敵対関係にあり、実際に吉田城や牛久保城に武田勢が迫ったこともありました。歴史に「もし」は無いかも知れませんが、仮に長篠・設楽原合戦で武田側が勝利し、武田の天下が実現した暁には、武田の重臣山県昌景を妻の実家にもつ岩瀬家は、牛久保衆の中での評価をさらに高めたことでしょう。
 戦国時代、自分の家や、主家を守るための政略結婚は、けして珍しくありませんでしたので、この結婚がもし事実だとすれば、武田が勝ったときの保険として、牛久保牧野氏公認という以上に、主家の積極的な介入があったのかも知れません。
 ところで、この山県昌景は、この地方では珍しい武田氏制札を、御津の大恩寺(宝飯郡御津町広石)に残していることでも知られています。大恩寺は牧野氏の菩提寺であり、岩瀬氏の墓所でもありますので、この寺を選んで制札を与えたことについては、岩瀬氏との所縁が関係したのかも知れません。
 まず、山県昌景について、新人物往来社「戦国人名事典」(一九九〇)は、次のように書いています。
 山県昌景(やまがたまさかげ)/?〜一五七五(天正三)/三郎兵衛尉。戦国時代の武将。甲斐の武田信玄の家臣。はじめ飯富源四郎といい、飯富虎昌の弟。信玄の近侍・使番を経て譜代家老衆三百騎侍の隊将となる。永禄八年(一五六五)、兄虎昌の誅殺後に山県姓に改める。原昌胤とともに両職を勤め、駿河江尻城代。天正三年(一五七五)五月、三河長篠の戦いで勝頼に従い、戦死する。(以上、引用)
 大恩寺の武田氏高札について、「新訂三河国宝飯郡誌」は、御津山浄土真院大恩寺の項に、「山門高札、元亀四年正月三日甲州武田氏の将山県三郎兵衛尉トアリ」と書いています。
 この山門高札は、木製ではなくて、紙に書かれたもので、大恩寺文書(町指定文化財)の一つとして、同寺境内の文化財展示場に収蔵されています。これについて、「みと歴史散歩」(平成十二年)は、「大恩寺文書/寺宝として大切に保存されているものの中で、町指定のものは次のようで、受付に申し込めば拝観ができます」とし、指定文書十一点中に、「九、山県三郎右兵衛尉高札、元亀四年(一五七三)」として挙げています。
 この文書の表題を、「御津町史文書目録」(昭和五十五年)は、大恩寺所蔵文書の中で、「武田信玄高札(竜印判)」(元亀四年、一通)とし、備考欄に「山県三郎右兵衛尉」と書いています。これを受けてか、「東三河の百ヶ寺」(平成四年)は「武田信玄禁制高札」としていますが、総大将の武田信玄に代わって、地区司令官が署名した高札ということですから、これでもいいのかも知れません。
 この高札の文面について、「御津町史、史料編上巻」(昭和五十九年)は、大恩寺史料中の武田氏禁制と題して、次のように書いています。
 (朱印)高札/大恩寺(へ)/当年(大島注、当手と読むべきか。自分の配下の)甲乙(すべて、の)軍勢(は)、於彼寺中(この寺の境内において)、不可濫妨狼藉(乱暴狼藉をするべからず)、若背此旨者(もしこの旨に背くものは)、可被行厳科者也(厳罰に処されるであろう)仍如件(この高札の趣は、前記のとおりである)/山県三郎右兵衛尉、奉之(これを奉る)/元亀四年、正月三日(以上、引用)
 この高札については、「御津山誌」(「同、史料編下巻」昭和五十七年、所収)も、「山県三郎兵衛尉ヨリ御当山エ建テ置カレ候高札ノ文言(は)左ノ如シ」と前書きして、「高札/大恩寺/当年甲乙軍勢、於彼寺中、不可濫妨狼藉、若背此旨者、可被行厳科者也、仍如件/元亀四年正月三日/山県三郎兵衛尉、奉之」と書いていますが、これも文頭が「当年(正しくは、当手か)甲乙軍勢」である点と、署名の「山県三郎兵衛尉(史料編上巻では、山県三郎右兵衛尉)」に注目すべきです。
 なお、「御津山誌」のこの記事の上欄外に、「三河雀一ノ巻ニ云(う)」として、後人の書込みあるようですが、該当記事を「三河雀」(大口喜六旧蔵本)から拾うと、次のとおりです。
 (宝飯郡)広石村御津山大恩寺(は)、(寺領)百石、(浄土宗)鎮西(派、なり)。牧野民部太夫(別本に、大夫)康成御先判(の)菩提所(菩提寺)也。当寺第十二世成誉上人ハ、神君(家康)公(の)御伯父也。御津山(の)風景(景色、は)面白し(広々と美しい)。孤峯蒼海に入(り)、神嶋(三重県鳥羽市神島町)、篠嶋(知多郡南知多町篠島)、森取嶋、作の嶋(幡豆郡一色町佐久島)、勢州(伊勢の国、の)浦々(が)見ゆる。元亀三年壬申(みずのえさる)中冬(真冬、に)、甲州(甲斐の国、の)山県三郎兵衛昌景(は)、人数(軍勢)壱万余にて、挙母(ころも、豊田市挙母町)岩津(岡崎市岩津町)筋より東三河へ大見物(別本に、大物見。多くの兵を率いての斥候)に出(いで)、此(の)寺に陣(を)取(り)、同(元亀三年)冬十二月廿二日(に)、遠州(遠江の国)味方ヶ原(静岡県浜松市三方原町)にて、神君(家康)公(は)武田信玄と御合戦有(り)。信玄ハ極月(十二月)廿四日ヨリ天正元年酉ノ正月六日まて遠州刑部村(静岡県引佐郡細江町刑部)に対陣、同七日に刑部村(を)出陣、三州野田村(新城市野田)の城主菅沼新八郎定盈を攻(め)玉(給)ひ、此節(この時)信玄(は)鉄炮(鉄砲)に当り玉(給)ふと也。山県三郎兵衛(は)、此(の)時大恩寺へ立寄(り)侍(はべ)るや、両掾(別本に、両様)不分明(不明である)。(高札の)年号(の元亀)は(天正への)改元を(山県昌景が)不知(知らなかった)と見へたり。「高札/大恩寺/当年(大島注、楷書で当年と明記)甲乙軍勢、於彼寺中不可盗妨狼籍(藉)。若背此旨者可被行厳科者也。仍如件。/元亀四年正月三日/山県三郎兵衛尉」/当(大恩)寺本堂は、牧野右馬丞(が)、(宝飯郡)牛久保村の御城(牛久保城)の書院を以て建(て)玉(給)ふと也。同近所に猿楽と云(う)取手(とりで、砦)の城跡(砦跡)有(り)。昔日(むかし)延命権兵衛と云(う)猿楽(師、が)、嫌浜(別本に、塩浜。塩田を)寄附の事(寄付したこと)有(り)。(以上、引用)
 「御津山誌」の上欄外の書込みは、元号についてもあり、三河雀の「年号は改元を不知と見へたり」を補足して、「明治国史略ニ曰(く)、年号(の)改元ハ元亀四年九月、改元シテ天正トナル。山県氏(は)改元ヲ知ラサルニアラズ」と弁護しています。
 この武田氏高札が発給された時代背景について、「御津町史、本文編」(平成二年)は、「武田信玄の三河進出」の項で、「武田氏禁制(大恩寺文書)」の写真を添えて、次のように書いています。
 元亀三年十月、西上を図ろうとする信玄は大軍を率いて甲府を出発、まず徳川氏領国深く侵入して家康方に打撃を与える作戦をとった。分隊山県昌景の軍勢はこの月、長篠城に陣し、野田・吉田を侵して遠州へ進んだ信玄と合流した。十二月、信玄は家康の居城浜松近くまで押し寄せ、これを迎える徳川軍と三方ヶ原で大激戦を交えた。家康方は必死の防戦につとめたが、結果は大敗であった。信玄はこの勝利後、遠江刑部で越年し、こんどは三河へ侵入し菅沼定盈・松平忠正の守る野田城を囲んだ。/ところで、元亀四(天正元)年正月三日付けで山県昌景が奉じた武田氏禁制(高札)が大恩寺あてに出されている。/刑部にいた武田軍が行動をおこすのは七日で、その四日前に出されたものである。山県は別働隊を率いてこの地方に侵入していたのかもしれない。禁制は事前に進軍先一帯の寺社へ出されるのが一般的であるから、あるいは本隊が御津方面へ進軍する計画があったと考えることもできる。当時の大恩寺住職は家康の叔父成誉であった。(以上、引用)
 この高札については、「豊橋市史、第五巻」(昭和四十九年)も、次のように載せています。御津町史の意見を尊重してなのか、同じく「当年甲乙軍勢」と読んでいますが、この高札が当年限り有効であるとする必要性が、実際上あるのでしょうか。
 山県昌景禁制/大恩寺(宝飯郡御津町)所蔵/(朱印、印文竜文)高札/大恩寺/当年甲乙軍勢、於彼寺中不可濫妨狼藉、若背此旨者可被行厳科者也、仍如件/山県三郎右兵衛尉、奉之/元亀四年、正月三日(以上、引用)
 この高札について、熊谷丘山「新城之今昔」(大正十三年)は次のように書いていますが、幾つかの文字が抜けたり、原本と違っていますので、「其写」を写したものかも知れません。
 (信玄は元亀三年十二月)廿四日に刑部に陣を移し、此処(ここ)に年越をして兵馬を休養させたのであるが、年号は元亀三年で天正元年と改まつた其(の)正月早々、信玄は兵を動かしたが、此(の)時も矢張(り)山県昌景は先鋒となつて、既に三日には東三河に入つたので、其(の)時の制札が今尚御津村の大恩寺にある。其(の)写は左の通りである。「高札/大恩寺/当年甲乙軍勢於彼寺中不可濫防(濫妨)狼藉若背此旨(者可)被行厳科(者)也仍如件/元亀(天正)元年正月三日/山県三良(三郎)兵衛尉奉之」(以上、引用)
 大恩寺の武田氏高札、本文最初の行、最初の文字「当」に続く二文字目を、「年」と読むか「手」と読むかの問題ですが、これまで見てきたとおり、地元では疑いもなく「年」と読まれています。
 仮に「当年」と読んだとして、「甲乙」は何でしょうか。干支だと当年とうまくつながりますが、甲乙という干支はありません。「甲(甲斐)之」なら次の「軍勢」と意味がつながりますが、写真を見るかぎりそう読むことは無理のようです。
 ところで、広辞苑によると、甲乙人(こうおつにん)という言葉があって、意味は「誰と限らずすべての人、あの人この人、名をあげるまでもない者、一般の人」だとあります。映画演劇の配役で、村人A、村人Bなどという端役がありますが、この場合は正に雑兵甲、雑兵乙に相当します。
 古文書の専門家は別として、筆者ごとき初心者に、草書体の「年」と「手」とを明確に区別することは困難ですので、ここでは文章の中での意味の流れから文字を類推するという便法をお許し願います。
 もしこの「年」を、地元御津町での定説に逆らって「手」と読んでよければ、この手は手勢、手の者であり、部下、配下の意味です。従って、当手は自分の配下であり、相手に対して尊称として使えば御手です。
 「当年甲乙軍勢(年内、すべての軍勢は)」だと難解ですが、「当手甲乙軍勢(自分の配下のすべての軍勢は)」なら、文意が容易に理解できます。
 嬉しいことに、「参河国名所図絵、上巻」は、御津山浄土院大恩寺の項に、「高札/当手甲乙軍勢於彼寺中不可濫防(濫妨)狼藉若背此旨者可被行厳科者也仍如件/元亀四年正月三日/山県三郎兵衛尉」と、「当手」と読んでくれていますので、筆者だけの発想ではなかったようです。
 先に触れたように、「御津町史、本文編」にも小さいものはありましたが、この高札の大きな写真が、「山形(山県)三郎兵衛昌景制札」として「徳川家康と其周囲、中巻」(昭和九年)に載っていて、当年か当手かの検討に、大いに助かりました。以下のとおり、この本も「当手」と読んでくれていて、筆者にとっては大きな味方です。
 信玄(は)その(高坂弾正の)言(意見)を容れて、(元亀三年十二月)廿三日(或は廿四日)上刑部(静岡県引佐郡細江町)に退き、こゝに営(野営)して越年した。山県昌景は伊平(同郡引佐町伊平)に次(宿泊)し、ついで先鋒となつて参河に入り、八幡(豊川市八幡町)御油(同御油町)の辺まで軍を進めて吉田城(豊橋市)を威脅(威嚇、脅迫)した。天正元年正月三日付の宝飯郡御津町大恩寺の制札は此(の)時(に)出したのである。「(竜朱印)高札/大恩寺/当手甲乙軍勢於彼/寺中不可濫妨狼藉/若背此旨者可被行/厳科者也仍如件/山県三郎右兵衛尉、奉之/元亀三(四)年、正月三日」(以上、引用)
 天正元年(元亀四)正月三日に、山県昌景本人が大恩寺に来たかどうかは分かりませんが、「参河国聞書」には、「天正元癸酉(みずのととり)年正月三日、山県三郎兵衛(甲州ノ士、は)御津大恩寺ニ陣ス。同七日、信玄(は)刑部ヨリ本坂ヲ越テ野田城ヲ攻ム。同十一日、落城ス。信玄(は)疵(きず)ヲ蒙リ、四月十二日(に)卒去(死去)ス。」とありますので、大恩寺、あるいはその付近での短期滞陣も、ありえたのでしょうか。
 大口喜六「国史上より見たる豊橋地方」(昭和十二年)は、「かくて信玄は、其翌天正元年の正月、いよいよ兵を東三河に進め、十一日を以て本坂峠を越へ、菅沼定盈の野田城を包囲したが、之より先き山県昌景は先鋒として再び東三河に侵入し、正月三日付を以て宝飯郡御津村大恩寺へ制札を出したが、其制札は、今日も同寺に保存されている。」とだけ書いています。
 ある時代、ある集団が、ある一定の目的のために、反復して文書を発給したとすれば、自ずとそれは類型化し、定型文化するはずです。
 武田氏がこの時代に出した高札の文例を集めてみれば、当年か当手かの問題など、簡単に解決するはずだと考えて、東三河で他に武田氏の出した高札の例はないものかと探しましたら、新城市の公式ホームページ中に「徳貞郷に宛てた武田勝頼高札」が見つかりました。しかも、有難いことに写真入りです。高札についての一般的な説明と、その文面については、次のとおりです。
 武田軍はその軍勢を進めるにあたって、各地にこのような高札を出していきました。武田の軍勢が進軍する上で、その土地の人々に迷惑をかけないための配慮でした。このような高札はこれまで数点が明らかにされています。/このたび津具村の旧家(渡辺氏)で所蔵されてきた武田勝頼の高札を確認しましたところ、勝頼が長篠城を取り囲んだ頃にあたる天正三年四月晦日(末日)に出された高札でした。「(印)高札、徳貞郷/嘗手軍勢甲乙人等(武田軍勢のすべての者は)於彼郷中(徳貞郷において)不可濫妨狼籍(狼藉、乱暴にふるまうことを固く禁止する)若有違背之族者(もし、この命令に背くものがあるならば)可致行厳科者也(厳しく罰を与える)仍如件/天正三年乙亥卯月(四月)晦日(末日)」(以上、要旨)
 写真で見るかぎり、当年か当手かと思われますが、ここでは「嘗手軍勢甲乙人等(武田軍勢のすべての者は)」と読まれています。「嘗手(かつて、すべての意)」と解しているようです。三省堂「大辞林」によれば、「甞て(かつて)」には、「すべて、みな、ことごとく」の意味があり、「平安時代においては、漢文訓読に主に用いられた」そうです。当年か当手か嘗手かは別にしても、この例から、先に推論した「甲乙」が「甲乙人」の意味であることが立証されました。
 このホームページには、「新域(正しくは、新城)」「このたぴ(同、このたび)」など、一見して字形の似た誤字が散見されますので、これも単なる誤字「嘗手(正しくは、當手、当手)」である可能性もあります。
 さて、御津で「当年」、新城で「嘗手」では、何の解決にもなりませんので、同時代の武田氏の高札を県外に求めて「静岡県史、資料編八、中世四」(平成八年)を探しましたら、次に示すように、「当手」とするものが何例も見つかりました。なお、当然ながら、「当年」「嘗手」とするものは、一例も探せませんでした。
○武田家禁制/満願寺文書(静岡市小鹿)/武田家、駿河国満願寺に、軍勢等の濫妨を禁ずる高札を掲げる。「(竜朱印)高札、(駿河国安倍郡)満願寺/当手軍勢甲乙人、於彼寺中、不可濫妨狼籍(藉)、若背此旨者、可被行罪科者也、仍如件/土屋右衛門尉、奉之/永禄十三、正月十六日」
○武田家禁制/可睡斎文書(袋井市久能)/武田家、遠江国可睡斎に、軍勢などの濫妨等を禁ずる高札を掲げる。「(竜朱印)高札、(遠江国周智郡)満願寺/当手甲乙軍勢、於彼寺中濫妨狼藉、堅被停止之訖、若有違犯之族者、可被処厳科者也、仍如件/市川宮内助、奉之/元亀三年壬申、十月廿八日」
○武田家禁制/平田寺文書(相良町大江)/武田家、遠江国平田寺に、濫妨狼藉を禁ずる高札を掲げる。「(竜朱印)高札、(遠江国榛原郡)平田寺/当手甲乙之軍勢、於彼寺中不可濫妨狼藉、若有背此旨輩者、可被処厳科者也、仍如件/跡部源三郎、奉之/天正二戌(戊)申、五月九日」
○武田家禁制/華厳院文書(大東町上土方落合)/武田家、遠江国華厳院に、軍勢等の濫妨狼藉を禁ずる高札を掲げる。「(竜朱印)高札、(遠江国城飼郡)花厳院門前共仁/軍勢甲乙人等、於当寺中、不可致濫妨狼藉、若至于違犯之族者、可被処厳科者也、仍如件/跡部大炊助、奉之/天正二年、六月十九日」
○武田家禁制/渡辺千尚氏所蔵文書(北海道)/武田家、遠江国吉永郷に、軍勢等の濫妨狼藉を禁ずる高札を掲げる。「(竜朱印)高札、(遠江国榛原郡)吉永郷/軍勢甲乙之人、対彼郷中往還之地下人、不可致濫妨狼藉、若有違背之族者、可被処厳科者也、仍如件/市川宮内助、奉之/(天正二年)甲戌、七月十五日」
○武田家禁制写/中村文書(浜松市城北)/武田家、遠江国渋川村に、禁制を下す。「当手之軍勢甲乙人等、於彼郷中不可濫妨狼藉、若令違犯者、可被処厳科者也、仍如件/朱印(竜朱印)/山県三郎兵衛(昌景)、奉之/天正三年乙亥五月六日」
 御津の大恩寺は、牛久保牧野氏とも、岩瀬氏とも関係の深い古刹です。そこに残る武田氏高札は、岩瀬嘉竹の義父だとされる、武田の名将山県昌景が出したものです。それは「当手甲乙軍勢」で始まる簡単な文章ですが、従来、地元御津町では「当年甲乙軍勢」と間違って読まれてきたようです。
 本稿は、同時代の武田氏高札の実例を県内外に求めて、大恩寺武田氏高札の正しい読み方を探りました。

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